【観(かん)の目と見(けん)の目】
今村遼平
宮本武蔵(1584-1645)は『五輪の書』の水(すい)之巻「兵法の目付(めつけ)といふ事」で,次のように述べている.
「目の付けやうは,大きに広く付くる目也.観(かん)見(けん)二つの事,観(かん)の目つよく,見(けん)の目よわく,遠き所を近く見,ちかき所を遠く見る事,兵法(ひょうほう)の専(せん)なり.敵の太刀(たち)をしり,聊(いささ)かも敵の太刀を見ずといふ事,兵法の大事也.工夫有るべし.此目付,ちひさき兵法
にも,大きなる兵法にも同じ事也.目の玉うごかずして,両わきを見る事肝要也.」
この一節のあとに「・・・・観と見の二つの見方のうち,観の目つよくして敵の動きを見抜き,その場の状況をよく見,大局に目をつけてその戦勢を見,そのときどきの強弱を見て,確実に勝を得ることが必要なのだ」とある.
くしくも宮本武蔵と同世代の新陰流の師・柳生宗矩(むねのり)は『兵法家伝書』の 「活人剣(下)」 で,
「目に見るをば見と云ひ,心に見るを観と云ふ.心に観念する儀也.・・・・」
と述べ,息子・柳生十兵衛三(みつ)厳(よし)(1607-1650)も著書『武蔵野』の中で,観と見との差を次のように明記している.
観 「観は聞く心.目をふさきみる心,うちにみるなり.観に所作はなき也.所作はあ
ひて次第いつるもの也.」,「観は所作表裏にあらす.心さしのもと也.本(もと)にてみる心
也.こころをひとところにとめさる也.ととまるは観にはあらす.」
見 「見は現在にみる也.目に意に通してより心にうくる也.目にみる所には所作しな
しあるもの也.外より内へ入也.」
「観る」というのは(かん)の旧字体の雚(かん)が音を表すもので,もともと「ぐるぐる見まわす」意の圜(かん)からきている.したがって「観る」は「念を入れて見る」「明らかに見る(観察)」といった意味になるようだ.つまり私たちがよく使う「観察」は,「物事をみて明らかにすること」あるいは「現象について,自然の状態のままを注意して詳しくみること」をいう(広辞林).
では,「心の眼」でみるとはどういうことか.それは,眼前にみえるもの(・・)やこと(・・)を通して, その背後に無限に広がり無限にある「何か」をみようとする態度である.
一方,「見る」という行為に「心」は含まれていない.眼前の状況の単なる視覚的なインプットが「見る」である.見て,そこに意志があってはじめて心に到達する.このため,「心焉(ここ)に在(あ)らざれば,みれども見えず(『大学』伝7章)」ということにもなる.目は対象を見ていても,心がそこにないと,100%見えるわけではないのだ.
日常的な「見る」行為よりも技術分野での「観る」行為は,思弁的・内面的だし,科学の分野はさらに思弁的・内面的だと言えよう.
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